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●湯島天神の謎(秘密)



   天神伝説序章 八百万の神と言われる日本の神様は難しい。
日本の神々と言えば、自然神・生活神・人間神で成り立っているようです。そもそも「天神」とは、「天の神」のことであったという説が有力のようです。自然神であり、晴雨を支配する天の神であり、農業に欠かせない雨や雷に象徴されるようである。火雷天神という地主神もその仲間でしょう。日本の神様ベスト3と言えば、日本において多く祀られているのは、商売のお稲荷さん(農耕神)・八幡様(応神天皇)・天神様(菅原道真)です。五穀豊穣でもあるお稲荷さん・戦が多いと八幡様・江戸時代のように平和な時は天神様が盛んに信仰されたそうです。

●第一章


   創建時、神話の神を祀(まつ)ったのなら、天神(てんじん)は天津神(あまつかみ)を主神とするのが正しいのでは?
湯島天神創建は御宇二年一月(458年)と伝えられ、雄略天皇の勅命により天之手力雄之命(アメノタジカラヲノミコト)を祀る神社として建てられたとされている。そのようなことから、天神(てんじん)とは天津神(あまつかみ)であり、あまつかみの御祖(みおや)とされる天照大御神(アマテラスオオミカミ)の命令で天から降りた神々を天神としたのではないだろうか?昔からの言い伝えでは、天神をアマツカミ、地祇をクニツカミと読み、「天神とは高天原に生ずる神をいう」とある。

●第二章



   湯島天神創建時に祀られた神話の神様(天之手力雄之命)は、単に腕力が強かっただけで無く、もろもろの妖しい罪や穢れを祓い清め給う徳と威厳のある神とされている。日本の天皇の始祖と言われる天照大御神が、孫の邇邇藝命(ニニギノミコト)を豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに=日本)に降臨させた時にも随伴の神に加わり、永く皇統を守ったとされる偉い神様として伝えられています。道真は903年大宰府にて没し、905年味酒安行(うまざけやすゆき)が道真の遺徳を偲んでお墓である祠廟を建立した。その後、10年の歳月を経て安行は道真の御墓、つまり安楽寺(大宰府天満宮)を創建した。遺言とおり、牛が止まったところに菅公を葬り、その上に社殿を建てたのが安楽寺の創草であるとされているので、むしろ寺院としての性格が強く安楽寺天満宮とも呼ばれていたようである。室町時代には、「太宰府天満宮」の呼称も登場している。後に合祀されることとなる菅原道真は、後に合祀されることとなる菅原道真は、903年大宰府にて没し905年味酒安行(うまざけやすゆき)が道真の遺徳を偲んでお墓である祠廟を建立した。

●第三章


   祭神ナンバーワンをめぐる謎も、昔の人が行ったことだとすると、それも含めて文化や伝統と言うのでしょう。
458年創建ということは、道真は903年に没していることからすると、それまでは天之手力雄之命一神を祀っていたと想像できるわけで。道真は、その後に合祀された祭神であったのだ。それが、摂社として境内裏の戸隠神社に祀られているのは何故だろう。摂社とは本社に付属し、本社の祭神と縁故の深い神を祀ったとされる神社と言われているが、先輩神であり、天神(あまつかみ)である天之手力雄之命という地主神を本社から摂社に分祀し、道真を本社の祭神としたのは本末転倒の事態じゃないのだろうか?昔の人は、神話の自然神と人の欲求から祀られた人間神を同等に扱っていたのではないだろうか?

●第四章


   犯人は誰だ! 迷惑しているのは振り回される神々ではないか?
南北朝時代の1355年{正平10年(1346−1370)・文和4年(1352−1356)}に郷民(村人)の請願により菅原道真の御遺徳を慕い文道の太祖と崇め、京都北野天満宮の分霊を勧進(寄付を集める)して本社を造り祀ったと伝えられていたそうな。その後、何度も火事にみまわれています。大田道灌の再建後の明治になって郷社となり、ついで府社へと昇格している。この時代には天神(あまつかみ)より完全に道真がナンバーワンとなる。ならば、天神様でなく湯島天満宮が正しいのかな?平安時代以降、個人がお参りするようになり、仏教における個人救済同様に自分だけの祈願や利益を欲する傾向になる。こうして、霊験あらたかな神々が日本国中で勧請(カンジョウ)され、新たな神道信仰が発展した。どうやら、昔、湯島に住んでいた村人達が平和を祈って天神様に菅原道真をお招きしたのが本当のようです。

●第五章


   菅原道真が神にまで崇められるようになったのは?
大宰府天満宮が埋葬された土地でもあることから庶民に近い存在に見え、北野天満宮は権力者の都合を引き受けたものに思えるので、大宰府から勧請(カンジョウ)とも考えますが遠かったのでしょう。平安時代末期から鎌倉時代ごろには、道真を怨霊として恐れることが減り、天神様は慈悲神、正直神として信仰されて行き、学問の神様として庶民に親しまれるようになったのは、天正十八年(1595)徳川家康公が江戸城に入る時に湯島神社を崇敬し、湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったからとされています。しかし、これも神道の天海僧正がついていたことを考えると、菅原道真を島流しにした朝廷と周辺一族が祟りを鎮めるために神として祀り、庶民には、学問の神として広めたように、将軍もまた、天海僧正に言われて祟りを避けることを目的として崇敬させたのかもしれません。なにはともあれ、火雷天神「あまつかみ」と同一視されるようになり学問の神として信仰されるように代わって行きました。かくして、湯島の天神様は勉強の神様として菅原道真を祀る神社となったとさ。めでたしめでたし
以下の二首は道真が「誠の道」と「清き心」を詠った神道の本質といわれるものである。
*心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても 神や守らん
*海ならず たたえる水の 底までも 清き心は 月ぞ照らさん

●第六章


   ますます解らなくなる神社の謎、真実は迷宮の中へ
ちなみに神田明神の正式名称は神田神社、根津権現の正式名称は根津神社です。徳川に着いていた天海僧正の神道が権現(神の姿をとって現われた仏)、吉田神道が明神(神は仮の姿ではなく明らかな姿で現れている)と呼ばせたのでしょう。現在「神社」と呼ばれるものの多くは、江戸時代には「神社」ではなく「明神」や「権現」の社号を掲げるのが一般的であったとすると、湯島明神とか湯島権現と呼称された時期もあったかもしれません?いったいぜんたい、アマツカミの天神様なのか、大宰府や北野を習って天満宮なのか、それとも湯島の明神様か権現様なのか全く解らなくなりました。きっと、神社も時代の波を受けて為政者に従って呼び名を変えて生き延びてきたり、住民の欲求を受け入れて代わらざるをえなかったのでしょう。しかし、人間神として祀られたけがれなき神である菅原道真の御遺徳には変わりがないでしょう。

追伸、安政3年(1856)の江戸時代地図には、湯島神社と戸隠明神と併記されているものがあります。ちなみに、戸隠明神とは地主神である天之手力雄之命(アメノタジカラヲノミコト)であります。

●第七章


   神社の起源は?『ウィキペディア(Wikipedia)』参照
磐座(いわくら)や神の住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。現在でも古代から続く神社では、本殿を持たない神社もあり、磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿のみを建てているところもある。原則として全ての神社を「〜神社」と称するようになったのは近代になってからである。神道の違いで「〜明神」や「〜権現」などと神名をもって社号としていたところや、もしくは「〜稲荷」「〜八幡」と「神社」の部分が省略されていたところ、「〜社」としていたところなどがあったが、全て原則として「〜神社」と称することになったのである。これを権現号の使用禁止と関連させて、明治の排仏政策によるものとの指摘もあるが、それよりはむしろ国家管理の施設としての合理化によるものといえるだろう。そもそも、日本の神というのは自然神が多ことから、山なり川なりに住んでいて神主さんが呼んだ時だけ神社に降りてこられたとされています。きっと湯島は、そんな神が降りてきやすい高台だったのでしょう。

●第八章


   巫女さんにも女性にも敬意を払わないと知りませんよ。
巫女の始祖と言えば、「日本書紀」によると菊理媛神(くくりひめのかみ)が祖だと言うことになるそうです。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国へ降りようとしたときに、声をかけた女神と記されているそうです。ここまでは、アニミズムの世界のように思えます。人間としては、卑弥呼(ひみこ)が最初に巫女として登場するそうです。中国の書物にも卑弥呼は鬼道を用い人民を治めていたと記されているそうな。人間の営み以外で、自然界で起こる全ての事象は神の御業とされた時代では、神の使いとしての巫女(卑弥呼)の力は強かったと推測できます(シャーマニズム)。神話の神々の世界やその後の歴史については、時の権力者に都合の良いように編纂されているかもしれないことを思うと、物語として捉えるのが一般的のようです。

●最終章


  雄略天皇が登場すると九州王朝説まで飛び出した。
湯島天神創建は御宇二年一月(458年)と伝えられ、雄略天皇の勅命により天之手力雄之命(アメノタジカラヲノミコト)を祀る神社として建てられたとされている。その雄略天皇が畿内勢力の大和王権(朝廷)開祖的存在であったことは歴史家の共通するところらしい。「律令国家が完成したのは奈良時代だが、その奈良時代に向けて歴史は未開から文明へと進んでいく。その担い手は一貫して大和王権だ」引用は「倭国と日本古代史の謎」斉藤忠氏。しかし、斉藤氏は、未開から文明社会である大和王権の時代までに矛盾する記述や出土品の年代鑑定と使用している文化圏に食い違いがあり過ぎると指摘している。1968年に出土した埼玉県の稲荷山古墳の金錯銘鉄剣に書かれた銘文をめぐり、それまでは、獲加多支鹵大王(ワカタケル)を雄略天皇とする解釈と、九州王朝説の主唱者・古田武彦氏や前出の斉藤忠氏が言う、大王の摂政(王の親戚)乎獲居(ソワケ)が治める大和王権とは別の関東の王が存在したとする解釈に分かれるている。更に、九州と関東が同じ文化で繋がれており、畿内文化だけが別の様相をていしている。近年になって、古墳などから出土する鉄・銅器や木片の鑑定方法が進歩、あるいは、中国などの歴史書との矛盾から、正史とされてきた「日本書紀」「古事記」への疑いが増しているのも事実であろう。そのようなことから斉藤氏は、大和王権は、畿内に侵略してきた饒速日命や神武の勢力か畿内土着の勢力と結びついた神武の勢力ではないかとも指摘している。その時、既に存在していたであろう畿内勢力に対して、侵略を命じたのは高天原(九州王朝説)であったとしている。それ以前に男系の倭国(委奴国)があり、それに取って代わったのが宗教的権威を持った倭国でもあり邪馬台国(三国志にある邪馬壹国)の卑弥呼を宗主とする王統交替があったとしている。そして、卑弥呼の後継王朝である天神一族(倭国)が、饒速日命や神武を畿内に派遣しているとして、当時の北九州に都を置く王朝が大和王朝以前に存在していたとしている。そして、その派遣された神武の一族がクーデターによって九州王朝を滅ぼし大和王朝を築いたとも著している。かたや、日本書紀にある大和王朝の仁徳・継体・雄略天皇の即位や崩御にも大きな矛盾が指摘されている。そうなると、458年という5〜6世紀の天下を治める王を名乗る支配者は、大和王朝ではなかったということになり、湯島天神(祠)を創建したとされる年代や、雄略天皇の命という伝承や記載は大和王朝による改ざんであり、当時、関東を治めていた王が九州から勧進したのかもしれません。しかし、調べていて気づいたのは饒速日命や神武も九州にいた一族であり、大和に移住して大和一族と関わったのであれば、九州王朝と大和王朝は親戚関係であったとも考えられるわけです。どうあれ、日本人としては昔の王朝が何らかの形でつながっていたであろうことは理解いたしました。詳しくは、九州王朝説の古田武彦氏や「倭国と日本古代史の謎」斉藤忠氏を参照されるのが良いかと思います。いずれにせよ、一つの考えに捉われず日本の歴史認識を正していただきたいものです。