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●湯島の地名を調べてみると


 平安時代中期に作られた辞書和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は平安時代中期に作られた辞書です。「和名抄」「倭名鈔」「倭名抄」とも略称されてます。 それには武蔵国豊島郡湯島郷とあり、日本民俗学の祖菅江真澄の「北国紀行」には由井(ゆい)島と示されています。また、「神道大系 神社編17 武蔵国」(神道大系編纂会)油嶋天神御縁起には、武州豊嶋郡江戸油嶋郷とも示されています。 不忍池や上野広小路あたりはもともと海であったから、上野の山や御茶ノ水あたりから見ると、天神様があった高台が島のように見えたのではないでしょうか?確かに、白梅商店会地域でビル建築を行う時の基礎工事を見ますと、貝殻が沢山出てきますことからも海だったのは間違いないでしょう。
●『神道大系 神社編17 武蔵国』(神道大系編纂会)「油嶋天神御縁起」から


  爰武州豊嶋郡江戸油嶋郷天神宮は仁皇九十八代崇光院御宇に或人信心の渇仰不浅、雲井杳に凌年月運歩送星霜所に、依霊夢之神告、後光厳院御宇文和四年乙未 二月二十五日に奉勧請之所に参詣之諸人継踵比肩。賞罰之利生現当にして門前成市。油嶋は是塵外無双の霊地、東ハ滄海漫々とて朝日垂影跡月光鮮なり。南ハ江城の金殿玉楼重軒並甍、西ハ武野の郷里幽遠にして民村を煙にし、北は筑波山久堅の神代の空に詠、前には貴賎の往還後には筑波之嶺雲高梢、左ハ角田川の流静にして青龍も遊戯し、右ハ武蔵の広野、白虎も可栖之所、四神相応之霊場神仙之所居と可疑、一度運歩者滅罪生善の浄砌也。而に当社者権者の化身和歌之仏坐也。

●古い情報はどこまで確かかわかりませんが


  武蔵国は大化の改新で無邪志国(むざしのくに)と知々夫国(ちちぶのくに)を合わせ一国として成立したとされています。今の東京都・埼玉県・神奈川県横浜市・川崎市の地域を指しています。戦国時代の16世紀なかばには、小田原北条氏の家臣が住む領地であったとも言われていました。江戸時代、武蔵国の新座郡(橋戸村、小榑村)と豊島郡(その他の村)に属しており、豊島郡は現在の練馬・豊島・板橋・北・荒川・台東・文京・新宿のあたりと千代田・港・渋谷あたりの一部だったようです。「和名抄」には豊島郡内の郷を日頭(ひのと)・占方(うらかた)・荒墓(あらはか)・湯島・広岡・余戸(あまるべ)・駅家(えきか)と記載されています。文京や上野などの地名と違い、新座・豊島などは古くからあった地名なんですね。それでも京の都から見ればディープな田舎だったのでしょう。

●自然神である石も祀っていたということは?


 その昔、湯島の村人は自然神である石も祀ってた。石敢當(イシカントー・セキカントー)とは、古代中国の強力無双の力士の名前で、この3字を石に刻んで三叉路や丁字路等に建て厄除けとする習慣が沖縄、南九州地方に伝わったのが始まりのようです。多くは高さ1・2尺の石であるが、稀には4尺にも及ぶものもあるそうです。一種の自然神である石神信仰である。おもに西日本に限られた風習となっているが、東京にもあったと知りびっくり。白梅商店会から天神様を通って、ちょっと先まで歩くと湯島金助町がありますが、そこには文字に朱を塗ったものがあったそうです。きっと、西からの移住者や西との交流があったのでしょう。

●江戸の繁栄は治水事業の成功



   家康が江戸に城下を開いたが水不足に悩まされた。ことに埋め立て造成した下町は、井戸を掘っても塩気があってとても飲めるものじゃなかった。そこで、3代家光の時までに神田上水が整備された。しかし、町の拡大と人口増加のため水不足となり、4代家綱により2年がかりで玉川上水を完成させた。その後も、青山上水(1660年、四谷大木戸脇から)、三田上水(1664年下北沢から)仙川上水(多摩郡保谷村から、主に小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・浅草御殿などへ)が引かれて行く。昭和30年代までは、あちらこちらに井戸があり、地下水を汲み上げて飲んでいましたが、江戸時代に、塩気があった井戸水を仙川上水から水を引いたことで飲めるようになり、その水脈が残っていて利用していたのかもしれません?

●湯島に住まった道真の子孫と隣の根津には何かつながりが


   江戸時代に松平采女正忠節(ただとき)が小県と佐久に領地を与えられ旗本となり、その末裔が幕府終焉を期に久松と改名。先祖を菅原道真とする、信州の久松氏と湯島や根津には、深い関わりがあるかもしれません。信州東御市(東部町)の千曲川東岸にある緩い浅間山麓の傾斜地に旗本久松氏(松平)の領地がありました。久松氏の領地を支配する陣屋は祢津村(西町立町)にあったため、禰津知行所と呼ばれ、そこに奉行と代官その他の家来を常住させていたそうです。自らは江戸に常住となり、江戸湯島に上屋敷約2,000坪(地下鉄湯島駅5番出口付近)、下屋敷約3,000坪を保有していたとされてます。現在の湯島の隣には根津がありますが、久松氏が湯島に住んでいたとすれば、当然のごとく、身内や家来を近所に住まわせていたとも考えられます。そのようなことからすると、久松氏の領地である祢津村になぞらえて、根津という地名を付けたとも思えてなりません。更に、調査をしていて興味をそそられたのは、根津神社の御祭神に須佐之男命・大山咋命・誉田別命・大国主命の神話の神様とともに菅原道真が祀られていることです。今後も引き続いて調査をしたいと思います。

●菅原道真と平将門は関係があったように思われる。


   明治40年発行の「平将門故蹟考」(碑文協會)の記述には「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」。将門死後の「将門記」には、道真の霊力により将門に「親皇」の位を授ける位記(いき:位を授けるための文書)を送ったと記されている。また、道真の三男・菅原景行は駿河へ一時左遷されて後、赦免され東国に下り茨城県真壁郡に住んだとされ、その地が、将門の父・良将が住んでいた茨城県豊田群(現・石下町周辺)に近いことから、将門の叔父・良兼らと真壁郡羽鳥(現・真壁町)に菅原天満宮を創建したとされている。両者とその一族が生きた時代や境遇が似ており、菅原道真が太宰府で没したその年に将門が生まれていることや、死後の処遇も神として祀られていることなどから「将門は道真の生まれ変わり」との伝説が生まれたのではないでしょうか?築土神社では古くから本殿に将門、末社(木津川天満宮)に道真をそれぞれ祀っていたが、1994年、道真が築土神社本殿に配祀(はいし)されたことで、結果として、将門と道真が死後一千余年の時を経て築土神社本殿に相殿(あいどの)として一緒に祀られることになった。
●徳川も道真や将門に敬意を払ったのでしょう


  移設したり隠したり、合祀したり分祀したりと、昔も今も人の思惑が介入すると歴史が解からなくなるようです。二代将軍・秀忠は,伊達政宗 に命じて,本郷の台地を崩して御茶の水に川をつくり,湯島台と駿河台を分離した一方,芝崎町( 現大手町)にあった神田明神を,将門首塚(大手町)を除いて北西の湯島に移して江戸総鎮守とし,風水上の護りも完璧に行った。そう言えば、江戸城から見て湯島・上野・浅草は風水上の鬼門の方角なので、神社仏閣が多かったことも理解できました。平将門については、平成2年に、御祭神が将門であったと発表した飯田橋の築土神社のページが面白い。明治時代に「皇国史観」(天皇への忠義を重んじる歴史観)を絶対とする政府が、天皇に反抗した平将門を「逆賊」と考えても無理はなく、圧力を感じた神社が隠していて、今になって表に出すことができたのでしょう。徳川も皇室に遠慮して首塚を神社と分けたのかもしれません。平成になって築土神社の神輿が皇居の一部に入ったのも時代の変遷でしょう。
●江戸時代の湯島近辺


  湯島1丁目から旧6丁目までは 中山道の街道筋として古くから開けた古町(こちょう)である。古町とは寛永年間(1624〜44)までに開けた町のことであり、新年には将軍に目通りがかなうなどの特典が与えられていた町を言うらしい。司馬遼太郎の「上野と伊賀」には、伊賀上野の藩主である藤堂高虎が屋敷内の山に、家康を祭神とする東照宮を作り、その地を伊賀上野になぞらえて上野にしたと記されています。更に、伊賀上野には上野の車坂・清水坂という地名があり、不忍の池という名前は忍者が身を隠す必要がある時に、この池は葦や蓮の葉が生い茂っていてあえて忍ばなくとも大丈夫という意味で不忍の池と名付けられていることから、やはり伊賀との強いかかわりがうかがえます。その後、三代将軍家光が東照宮を作り変えて大切にしていることなどからも、将軍家が江戸城から東照宮・寛永寺への参拝の途中に、上野広小路や湯島近辺を通っていたことからも、当時から栄えていたことがうかがえるわけです。将軍と祭りと言えば、当事、江戸城内まで入れる神輿は、山王・神田・根津神社の三社(天下祭り)だったそうな。根津神社から湯島を通って江戸城まで神輿を担いでいたと思うと、祭り好きの下町っ子としては、なにやらわくわくいたします。また、平成18年9月16日〜18日には、根津神社の御遷座300年祭において、六代将軍家宣が奉納した三基の大神輿と山車を修復して町内を練り歩きました。通常2年に1度、1基が渡御するので、3基みようとすると6年かかります。
●人気のあった湯島天神の富くじ


   籤(クジ)は、古くは、神意をうらなう方法でありました。後に、容易に決しがたい事柄の決定に採用されるようになったものです。その籤が江戸時代に、多数の富札を販売し、抽籤によって賞金の当る、賭博の一種となったものです。時代劇にも出てきますが、富札と同数の番号札を箱に入れ、箱の上にあけた小穴から錐を突き入れ、刺さったものを当り番号とし、多額の賞金を出し、残額を興行者の収入としました。これらは、社寺修理料などをまかなうため、寛永(1624〜1644)の頃から公認され、江戸では、谷中感応寺・目黒不動・湯島天神を三富(さんとみ)と言いました。なかでも、湯島神社の富くじは千両だったようです。しかし、天保13年(1842)には禁止されております。江戸の頃の富くじをめぐる巷の話は、悪い旗本が寺社奉行などと仕組んだインチキ興行や落語に出てくる呑み助の職人を改心させる話などに良く伺えます。
●湯島に縁のある作家さん


  本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2−38−9・新井理髪店)に間借りしていた石川啄木が朝日新聞社に勤めていた頃、夜勤帰りに上った坂は湯島3丁目と4丁目の間の切通坂であったと文献に残っています。作家の久保田万太郎も湯島天神女坂下に住んでいて、足繁く通ったとされるのが、シンスケ(天神下)やうなぎ屋伊勢庄さんというお店。伊勢庄は昭和の終わり頃まで上野広小路と湯島の間に在りました。蕎麦屋の更科さんの前にありましたが、跡継ぎが無く跡地は台東区が管理しています。江戸川乱歩のわが青春記(昭和32年11月)には、早稲田大学政治経済学部予科に入学。横浜市に住む叔父・岩田豊麿の世話で、下谷区湯島天神町の小活版屋・雲山堂に住み込み、学校の余暇に印刷を手伝うが、南京虫と過労のため三か月ほどで退職とあり、一時期、湯島に住んでいたことがうかがえます。

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