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●お化け横丁の由来(春日通り丸赤は入る次の角。五合通りから昌平橋通り天神下よろずやへ抜ける道)


 この通りの両脇には昔、芸者さんたちのプロダクションでもある置屋が数件あり、昼間はスッピンで歩く女性が夜になると綺麗になって、化けて出てくる、との事からその呼び名がついたと言われている。

(春日通り丸赤は入る次の角。五合通りから昌平橋通り天神下よろずやへ抜ける道)

●五合通りの由来(丸赤と花月前の左右の通り)


  不忍池から蔵前橋通り迄、北から南へ真っ直ぐな道。冬になると北風が通り抜け、酒を五合ほど呑まないと出歩けない程寒かったので。

(丸赤と花月前の左右の通り)



●僕らの天神様と神主さん


  昭和30年代の湯島天神の境内は僕らの遊び場でした。野球(三角ベース)をしたり蝉を取ったり銀杏取りをして遊んだもんです。しまいには、宝探し(本殿や摂社などの下にもぐりこみ古銭を探す)までしちゃいました。社務所のガラスを割ったり木に登り枝を折ってしまったりとやりたい放題(反省)。本殿裏のびわも美味しくいただきました。いたずらをしていると、僕らが親しみを込めて100ワット(お察しの通りの意味)とあだ名をつけていた事務職の方に怒られ逃げ回ったものです。両国(現在の隅田川)の花火の日に、目の前に広がる大輪のパノラマに思わず「鍵屋〜・玉屋〜」と叫んでいました。まだまだ、時の流れがゆっくりな子供時代でした。ちょっと待ってください。僕らは、いたずらだけして神社に迷惑ばかりかけていたわけじゃございません。天神下の子供達は、幼稚園・小学校に通う道すがら、何も神社に求めるわけでもなく習慣として毎日のようにお参りしてました。それも、登下校の1日2回もですよ。ご利益があるとすれば、誰にあるか・・・。

●当時は宮司じゃなく神主さんと呼んでいた?


  子供時代は、今のように大勢の参拝客もなく静かな神社でした。だから神社は天神下に住む子供たちの遊び場として縄張りのようなものでした。当時は、神主さんが不在なことから、歴史ある諏訪神社の神主さんが湯島神社の神主も兼務されておられました。将軍家光の頃、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた諏訪神社近くの日暮里は、江戸時代なかごろまで新堀(にいほり)と呼ばれ、眺めの良い景勝地だったそうです。町民の物見遊山で賑わい、日の暮れるのを忘れる程の里ということで「日暮里」「日暮しの里」になったようです。江戸の時代からそのあたりの領主なのか地主さんか定かではありませんが、治めていたのが湯島神社の神主を引き受けてくださった日暮(ひぐらし)さんのご先祖のようです。(電話をさせていただきました)


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